うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー
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あたるとラムと周囲の人間たちだけ、永遠に文化祭前日を繰り返し続けるというループものの走りみたいな(正確に言うと違うな)筋立てで、終わらない日常としての学園モノの設定を逆手にとったメタ話になってる。学園モノではもう何年も歳を取らずに何回も文化祭をやったり体育祭をやったりするわけだが、そこに「永遠に文化祭前日を繰り返す夢の中に閉じ込められる」=「ここから脱出しよう」という目的を登場人物にさせることで、学園モノの設定を終わらせようとする学園モノのキャラクターたちを描いている。 結局、なぜ文化祭前日が繰り返されるのかというと、ラムの願望を夢邪気という妖怪が実現してしまったからで、そこから抜け出そうとするも、面堂もさくら先生も夢邪気にやられて夢の中に閉じ込められてしまう。主要キャラなのにラムはほとんど活躍しない。夢の中から出るために戦うのは実質、あたるだけだ。
青春時代を繰り返す、楽しくて終わらない、何の悩みもないユートピアは、自己充足的で快楽さえあればいいんだとばかりに、同じ世界に耽溺するオタクに対する批評性を持っていると言える。 食料も電気ガス水道も自動で供給されるため生活の心配をする必要が一切なく、自分たちの好きな人たちだけしかいない、対立も争いもない世界は、「生産と政治から解き放たれて」もいる(そんな中、食事をつくって全員に提供するのが、あたるの母親=女性だというのは示唆的)。ここにはセックスもない(死ぬこともないためリプロダクションは不要)。生活、政治、セックスのない無限ループの「ユートピア」に、共産主義的な理想への批判的視点もこめられているだろう。 おもしろいのはあたるの友人でありミリタリーオタクの「メガネ」が、このループ世界でも「政治ごっこ」をしているところ。食料品は近くのコンビニで調達するのだが、商品の金額はすべてメガネが帳面につけている。友人の「チビ」がチョコレートをちょろまかそうとしたのを発見したメガネは言う。「この街の食料は米粒ひとつポッキー一本にいたるまで全員の共有部分だ!お前は欲望のためにそれに手をつけた!!この行為は万死に値する!!」「連行しろ。戻り次第人民法廷を開いて処罰を決する!」。
また、メガネは、この世界の中で「友引前史」なる歴史記録をつけ、その中で次のように記す。「しかし残された我々にとって終末はまた新たなるはじまりにすぎない。世界が終わりをつげたその日から我々の戦いの日々が始まったのである」「しかし今我々が築きつつあるこの世界に時計もカレンダーも無用だ。我々は衣食住を保証されたサバイバルを生き抜き、かつていかなる先達達も実現しえなかった地上の楽園を、あの永遠のシャングリラを実現するだろう!」「人類の未来がひとえに我々の双肩にかかっていることを認識するとき、めまいにも似た感動を禁じえない」(強調引用者)(そしてそのモノローグの直後に日射病の「めまい」で倒れる)。
ここには生産から解放された人民の理想郷を求める共産主義への明確な揶揄がある(ちなみにこのメガネは共産主義者というより、ただの軍事オタクである。おそらくはメガネの発案だろう。あたるのクラスの文化祭の出し物はミリタリー趣味全開の喫茶店「卍」である)。本作では、成熟や変化を拒否し、生産からも政治からもセックスからも逃避するオタク的なメンタリティがこれでもかと否定される。
そうしたオタクのあり方への批評的スタンスも興味深いのだが、より興味深いのがあたるの言動に見られる固定化されたモノガミーへの反抗だ。さくらも面堂も夢邪気を退治しようとして、逆に閉じ込められてしまうのだが、あたるだけはその行動を先読みして、夢邪気の術から逃げ出す。ところがあたるはそれで夢邪気を倒すのではなく(ここで倒していたら話はそれで終わっていたにもかかわらず、だ)、取引をよびかける。さくら先生からもらったお祓い棒で払うのをやめるかわりに、自分の夢を実現してくれと。あたるが実現してほしい夢とは、説明するまでもないだろうが、「ハーレム」である。
「おれの永遠の夢が実現したで」と大満足のあたるだが、「おっさん、よくよくみると女達の中にラムがおらんがあいつはどーした?」「ラムがおらん。あいつはなぜここにいない?」と言う。夢邪気は言う。「おのれ何考えとんねん。あの子からあれほど逃げたがっとったのはなんなんや」と呆れる夢邪気にあたるが叫ぶ。
「いいかよく聞け! おれはな、他の子と同じようにラムにもきっちり惚れとる!ただ、あいつはおれが他の子とお付き合いしようとすると邪魔するので結果的に逃げ回わっているわけだ。わかったか!わかったらラムを出せ! ラム抜きのハーレムなど不完全な夢!肉抜きの牛丼じゃ!そんなもんぶち壊して現実に帰るぞ!ラムを出せ!」(強調引用者)
言われてみれば、あたるは他の女の子が好きなのをラムに隠しているわけではない。すべてあけっぴろげである。そして単一のカップル、しかも最終的に結婚に行き着くことが期待される当時のモノガミー規範に、あたるは従わないだけなのだ。あたるが「他の子と同じように」ラムにも「きっちり惚れとる」と言っていることに注意。他の子にも「きっちり惚れとる」のである。
ラムの視点から見ると、ラムの気持ちを知りながら不義理で不誠実な真似ばかりするあたるは浮気性の人間に見える。でも、そんなラムが愛しているあたる、その視点から見ると、ラムは誰よりも大事な人であると同時に「結婚を前提としたモノガミー」規範を押し付けてくるルールばかりの社会そのものに他ならない。本作、そうしたクィアな観点からの読み直しも可能だろう。あたるは「ラム」という社会から逃げているのである。 ラストでようやく映画タイトルが出てきたと思ったら、それが文化祭の看板だったというオチもいい。好みとは言わないが、やっぱり良作だ。